このページでは萩原悠の小学生編をお送りします。
まず僕が音楽を始めたきっかけに関してはそれぞれ時系列順に書かせて頂いた各ページをご覧ください!
萩原悠 小学生時代まとめ
萩原悠が音楽をはじめたきっかけ
ある日、3歳離れた妹がピアノ教室に通い始め、
始めは全然弾けなかったくせに段々とメロディが浮かび上がってきて……
わたくし萩原悠が音楽の世界に踏み入れる最初の1ページです。
第一次ピアノやめたい期
晴れてピアノ教室に通い始めたけれど、
半年くらいでちょっと飽きちゃった。
最初に感じたあの高揚感はなんだったんだろうなぁ……という回です。
Scene.3 →ブルグミュラー25の練習曲で音楽の楽しさを知る
この曲集と出会ったことが大きな転機。
音楽って、歌詞がなくても楽しい曲とか悲しい曲とかあるのね!!
そんなことを思った10歳くらいのことを書き残しました。
J-POPを聴き始める
テレビで流れてる曲を好んで聴くようになった時期。
近所のレンタルCD屋に行って、いそいそとテープにダビングするそんな硝子の少年時代を綴りました。
ギターを手にする
突然親戚のおじさんがギターをくれました。
ガットギター。
指が痛いけど少しは練習しなきゃ……ちょっと面倒orz
そんな経緯と心情の回です。
Scene.6 →初めてギターで1曲弾けた日のこと
初めて弾けたのは、
たまたま持ってた楽譜に掲載されてて、たまたまキーがCだったGLAYのHOWEVERでした。
全てはこの曲から始まったのです。
そのときの興奮というか、今でも全く色褪せません。
GLAYにハマる
そんなわけで初めてちゃんと聴いたロックバンドとして、GLAYにダダハマりします。
これはそれからずっと僕の音楽のルーツになっており、今更拭えないレベルです。
今への影響も含めて書きました!
小学生の頃に聴いていた音楽まとめ
小学生の頃はそんなわけでまだ音楽に夢中だったってほどではありませんが、
この時期に聴いていた音楽をまとめました!
他にもまぁ色んなことがありました
一応音楽に直接関係あることは上記のように細かく書いてきたんだけども、
音楽とは全然関係ないところ、いくつかあるのでここにまとめて書こうと思います!
たとえば、当時は頭良かったんだぞ〜的な自慢とかな!
勉強、知ることが楽しかった。
知的好奇心とでもいうの?
勉強とか結構好きだったんですよ。
休みの日に計算ドリル先までやっちゃう的な。
それと、図鑑がめちゃくちゃ好きでした。
特に宇宙、恐竜、海の生物あたりが好き。
虫のページは触るのが無理でした。
……あれ、今と一緒やんww
→2015年[わたしと宇宙展]
→2015年 映画[ジュラシックワールド]
作文書いて賞を取った
うなぎの骨が喉に刺さって病院に行ったっていう作文が市内のなんかの賞を取り、
のちに赴任してくる新しい先生に
「あの作文の萩原君だよね!」
とか言われる。
ふむ。
頭で考えるタイプなので、着手までに時間がかかる
これも今と一緒ねww
それこそ作文も書き始めるまでがすごい長かったし、図工の先生には
「お前はアイディアはいいんだけどな、難しすぎて途中で時間切れになっちゃって最後は適当になるんだよなぁ。」
と言われる始末。
安藤先生すみません、まだ直ってないですorz
自分に自信がない
なんかね、すごく恥ずかしかったんですよね。
周りと違うってことがすごく嫌だった。
というより、注目されるのが嫌だったのかなぁ。
いやこれは今でもずっと続いてて、紙一重というか表裏一体というか、
人と違うことやりたいけど目立ちたくない。
誰かに見て欲しいけど見られたくない。
こういう考えが昔からありました。
自分の意見なんて間違ってるだろうから言わないとか、
ここでも書いたけど、とにかく自分の思ってることを表に出すのが苦手でした。
あるときのテストで、学年で唯一自分だけ100点取っちゃったときとかすごい嫌だったなぁ。
あと、2年生のときのバレンタインにクラスメイトの女の子からチョコをもらったときとか。
こういう経緯から、今の萩原悠は“褒められるのが苦手”です。
なのであまり褒めないでくださいwww
まぁ安心してください、萩原悠の天才時代はその辺りで終わりましたからww
学校の音楽室を自由に使わせてもらっていた
なんでだったか、音楽の先生に使っていいよって言われてました。
朝も早く行って朝礼の前に音楽室のピアノ弾いたりドラム叩いたりシンセサイザー弾いたりアコーディオン弾いたりハンドベル鳴らしたり。
その頃は昼休みにも音楽室へ。
そんで結局小学生5人くらいでそこにある楽器使ってバンドみたいなことやったんだよね。
僕を含めみんな大して楽器できないわけ。
でもなんか僕が全員分楽譜を書いて教えて、披露した曲はwwwww
POISON!!wwwww
フヒーーーーーwwww
恥ずかしいwwwwwww
みんなこの曲のことをこの時代の恥ずかしいソングとして話にあげるじゃん?
俺の中ではもっと恥ずかしい思い出やねんwwwwwww
フヒーーー!!!!!!
ちなみに、このときのがわりとうまく行って周りにも認められ、
次はもっとすごいことをやろうってなりましたが企画が壮大になりすぎてポシャりました(いつものやつ!!!!)
4月生まれですからね
僕は4月生まれってすごく有利だと思うの。
だって3月生まれの子より一年くらい成長した状態で同じくくりにいれられるわけで、
幼稚園児とか小学生とかの一年ってすごく大きいじゃない?
そりゃ運動も出来るし頭もいいわな。
ですが安心してください、そんなことで調子に乗ってられるのはガキの頃だけですからww
肥満児
えっとね、太ってたんですよwww
身体測定でなんかグラフみたいのあるじゃない、要注意みたいな曲線。
あれを超えてた時期があります。
全体的にハンプティダンプティな感じでしたw
それでいてスポーツ刈りねw
高校生くらいのときは痩せてたんだけど、そのときも自分が痩せてるって自覚なかったね。
体型に関しては周りに太ってるって言われてたことが一番古い記憶だから、
その後も自分が痩せてるとはどうも認識できなくて。
なので痩せてるって言われても純粋に謙遜して却って嫌味になるってやつ。
ですが安心してください、今やタプタプのデブですよ!orz
ハワイ旅行に行く
家族で一度、ゴールデンウィークにハワイ旅行に行ったことがあります。
8歳か9歳だったかな、そんなに鮮明に覚えてるわけじゃないんだけども、
とにかく普段と全然違う環境、外国人だらけ、暑い、けど日陰は涼しい。
人生初のフラダンス、やたらデカいヘビがいた。
セスナに搭乗、日立の樹(この〜木なんの木気になる木〜)
そのときはそんなに非現実感もなかったというか、
むしろ現実感ってなんだみたいな感じだったんだけど、
結構な強行スケジュールで僕は弱音をはいたときに母が
「滅多に来れるところじゃないから疲れちゃうけどあちこち行きたいのよ」
とか言ってて、
あ、今はすごく特別な時間なんだ
って思った覚えがあります。
眠かったからぐずったけどww
ゲーム好き
当時の時代の子ですね、スーパーファミコンなるものが発売されまして。
発売日にうちにあったのを覚えてます。スーパーマリオワールドと一緒に。
父が好きだったんですよ、ゲーム。
それの影響というか、一緒にやってたというか。
セガサターンが発売されたときもバーチャファイターとバーチャコップと一緒にうちにありました。
プレイステーションが出たときもリッジレーサーと闘神伝と一緒に。
父はレースゲームが、妹はパズルゲームが好きだったけれど、僕はむしろそれやってなにになるんだろう的な考えでw
僕はRPGが好きで、物語があるもの、進める理由があるものが好きでした。
今では僕もゲームといえばファイナルファンタジーだとかキングダムハーツだとか言ってますが、
実は僕の中のベストオブRPGはアークザラッドです。
ご存知なくて結構、でもプレイステーションで初の本格RPG、
オープニングテーマは奥慶一先生、(10年以上経って、ご本人にこのときの感動をお伝えしました)
劇中BGMはT-SQUAREの安藤まさひろさん、
キャラの心情、吹雪の山、それらが音楽とともにずっと僕の中には生きてます。
関連→アニメ[明日のナージャ]は奥慶一先生の神楽曲により神アニメとなっている
父の死去
これ書く必要あるかなぁ。。(笑)
夜中にうちに救急車が来た日のことは鮮明に覚えてて、
ベッドの陰からなにが起きてるのかわからず見てたら父と目があって、
怖くなって思わず目を背けたのが最後でした。
いや〜人が死ぬとは思わなかった。
なんかその2週間くらい前、たまたま親戚のお葬式に行ったんですよ。
自分にとっては知らないおじさんだったけども、
その息子さんが泣きながら挨拶をしていて、
「葬式ってどんより重たいなぁ。てか父が死んだら息子があれをやるのか?無理だし!」
とか思ってました(当時9歳とかじゃあたりまえだw)
そのときのおじさんのことはどこか他人ごとで、まだ知る由もなかったのです。
まさか自分の身内が死ぬなんて。
自分はこの身この顔この名前で生まれて、
この父とこの母と、ずっと”小学生”というジョブを演じていくのだと思っていました。
でもそうだ、たしかに妹は色んなことが出来るようになってきている。
そういえば僕が5歳だったかの頃、目を開けなくなった祖父が安らかな顔で寝かされていたっけ。
このときに萩原少年は初めて、
– ずっと今が続くわけじゃないんだ –
ってことをふわっと感じました。
死亡診断書をチラッと見た
人が死ぬと色々手続きとかが大変ですよね。
9歳の僕はそんなのひとつも手伝うこともなく、
母が一人でやってくれました。
ちなみにこのときの母は、今これを執筆している僕とほぼ同い年。
インターネットで調べることも出来ない時代によくやってくれたぜ……。
そんな母がせっせと仕上げていた書類、正直どれだけあったのかも知らないけれど、
ホンの一箇所だけ覚えている部分があります。
それが今思えば死亡診断書。
志望の原因を書く欄(ア)があって、
次の欄(イ)は、 (ア)の原因 を記入する欄。
そして次の欄(ウ)には (イ)の原因 を記入する必要があって、
その下には (ウ)の原因 を書くようになってました。
なんて難しいことを訊いてくるんだ、しかも遺族が書かなきゃいけないなんて。
と子供ながらに思いましたが、
実はこの設問は今では自分が多用しています。
なにかを失敗したときは “その理由は”を5回繰り返すと真の原因が見える
なにかを成し遂げたいときは”その為には”を5回繰り返すと今やるべきことが見える
なにかを成し遂げたいときは”その為には”を5回繰り返すと今やるべきことが見える
これが今の僕の持論で、
自分の企画の進行だったり、他の方のディレクションだったりのとき必ず毎回引っ張り出す考え方です。
多分なにかの本で読んだとかじゃなくて、あのときの死亡診断書の真似をしてるんだと思うんだな。
父は鉄道オタクだった?
細かいことは全然覚えてないんだけど、うちにNゲージがあったんです。
しかも自作で線路を配置してジオラマで駅も山も作って、タンスかなにかを寝かして改造して100cmx200cmくらいのすごいNゲージワールドを作ってたんですよね。
ぶっちゃけなにやってるかはわからなかったけれど、
あれから20年以上経って、今僕の部屋はあのときの懐かしい匂いが立ち込めています。
その後ちょいちょい手を加え、ここらで完成とします。
— 萩原悠 (@hagiwaraU) 2018年12月16日
人生二体目のプラモデル、HGUCグフ。
プラスチックに見えない重厚感を目指して色々試しながらやって来ましたが、とても楽しかったです! pic.twitter.com/D3L3cCAvVQ
プラモデル作り、覚醒しました。
パラレルワールド説
これ、僕結構好きなんです。
なにかひとつ別の選択をしたらそこから世界は分岐して、並行世界が無数にあるっていう有名な説ですが、
僕はこれに法りながらも時間軸を逆行する考え方をしていて、
あのときこうしたから今の自分がある
という風に捉えています。
当時としてはどう考えても失敗だったり不幸だったりしても、
その結果が今の人生なわけで、
ぶっちゃけ今の人生そんなに失敗だったとも思ってません。
ってことは、全部アリ、全部正解の選択だったのかもしれません。
あの日父が死んだから親戚のおじさんが気を使って僕にギターをくれたんです。
友達がいなかったから電子ピアノで一人で遊んでて録音とMIDIを覚えたんです。
習い事
実は色んなことをやらせてもらってました。
水曜にはスイミング、
木曜には習字、
金曜にはピアノ、
土曜には体操、
日曜には地域の”スポーツなんでもやってみようクラブ”的なのに通ってました。
水泳は乳児レベルのときから小学校を卒業するまで通ってたため、実は結構泳げます。
2013〜2014年あたりは久々に近所の室内プールで身体動かしてました。
(萩原悠Presents Vol.3のセトリはほぼ泳ぎながら考えました)
木曜の習字、これ今に全く活かされてないのが申し訳なさの極み。
金曜のピアノは割愛。
土曜の体操、マットやったり鉄棒やったり平均台やったりトランポリンやったりです。
身体の硬さは当時からでしたが、この体操スクールでちょいちょい身体動かしてたおかげで、
仲間内でバク転ブームがきたときもどうにかバク転出来るようになったわけです。(V6がかっこよくて。)
日曜の謎のスポーツクラブは毎回結構色んなことやりましたな。
バスケ野球サッカー卓球あたりはもちろん、
カヌー、スキー、ヨット、インディアカあたりもやりましたね。
そんなに社交的ではなかったけども、他の学校の子たちと知り合いになれるのはなんだか面白かったです。
だって小学生の頃は他の学校だなんて外国ばりに交流なかったからね。
横田基地
外国といえば、習い事といえば。
実は親戚が米軍基地に住んでまして。
よく遊びに行かせてもらってました。
9.11以前は僕にも歩行者パスIDが発行されてたくらいだからね。
だいたい遊びに行ってたんだけども、小6の後半にはちょっと英語も教わってました。
この経験がのちにすごく響いていて、外国語への苦手意識がなくなり(もともと語学が好きだったのもあるかな。)、
結果的に台湾に行くにまで繋がってると思います。
かんしゃかんしゃ。
なんとなくものの考え方
あまり僕お金使うの得意じゃなかったんですよ。
今でも衝動買いしない方だと自負してるんだけども、
なんかもったいなくて使えなくて。
で、なんとなくお金関連で覚えてることを。
・おこずかい交渉
小学3年生かしら?
父に教えてもらいました。
「こずかいを毎月500円くらいもらえるようにお母さんにお願いしてみろ。
で、いきなり500円じゃなくて、最初は1000円欲しいって言え。
ダメなら100円ずつ下げていけ。」
とのこと。
結果、たしか600円だか700円だかで交渉成立で、代わりに毎日家の掃除をすることになりました。
これが僕が人生初めて身につけた交渉術です。
・袋代
これは小学1年生のころかなぁ。
駄菓子屋で、なんかちょっとお菓子買ったんだけどど、袋くれないの!
「それしか買わないんだったら袋はあげないよ。袋だってタダじゃないんだから。もっといっぱい買ったらあげる。」
的なことを言われました。
なんだこのケチなババアはと思いましたww
実はこの後数日
「袋だってタダじゃないんだから」
ってどういう意味だろうってしばらく考えていて、
そのときに
– お店はこの袋もお菓子と同じように買ってるのかもしれない。
それをサービスであげるには値段が決まってるんだ –
という結論にたどり着きました。
全てのモノには原価があるというのをうっすらと気づいた瞬間でした。
・お店ってどうやって儲かってるんだろう
これも多分1年生の頃の話。
なんかね、友達同士でトレーディングカードのやりとりをしてたの。
あれはなんだったんだろ、お店屋さんごっこみたいな感じだったのかなぁ。
当然レア度の高いやつが欲しいんだけどそこはルールで、レア度が同じ同士で交換し合おうみたいな感じだった。
でもそれだと自分が交換できる頻度がちょっと少なくて、どうにか自分がみんなから交換してと言われるようにしたいなと考えました。
ホラ、それって商売繁盛ってやつじゃん?
そこで思いついたのがタイムセール。
今僕のお店に来てくれたらレア度1つ分おまけします 的なやつ。
まぁ簡単に言うと割引だよね。
これを実施したらまぁ繁盛しましたよ。
みんな喜んで僕のとこに来てくれたし。
でも、5枚くらい交換したときに気づいた。
あれ……自分損してない??
なんでだろう、お店では結構割引ってやってるのに。
あれはやればやるだけ損するじゃないか。
このとき、手元のドラゴンボールのカードを見ながらハッとしたのを覚えています。
お店が商品を買うときとお店が商品を売るときは値段が違うんだ。
と。
原価と売価の違いをうっすらと理解する7歳児でした。
かわいくねーなww
まとめ
……なにこの思ったより長いページwww
そんなこんなで、萩原悠はすくすくと育っていくことになります。
音楽しかやってないと思ったけど、わりとやってましたねww
こうやって色々経験できたからこそ今の僕がいます。
本当に周りのみなさんにかんしゃです。
次回からは中学生編です!
まずはMDを手に入れた日 です!