このサイトを運営しているわたし、萩原悠の生い立ちを事細かに書いて来ているプロフィールページ、
ここでは2011年に大学を卒業してから2014年台湾に行く前までの”フリーター時代“のまとめです。
いつだって一生懸命生きて来たつもりではありますが、果たしてこのときはどんなことを考えていたのでしょうか。
個別ページを書いた件のまとめ
そこそこ大きな出来事は個別に書いたので、
ここでは紹介だけさせてもらうことにします。
大学で働き始めた
通っていた音大を卒業すると同時に、
そこのスタッフとして働き始めることになります。
ホールの管理、
アンプやドラムの修理、
生徒たちや先生方のサポートなどなど、
なんだかんだで色々やることになりました。
このフリーター編はイコールで大学スタッフ時代編とも言えます。
ニコ生
友人の紹介で、当時流行ってたニコニコ生放送ってやつで(今も流行ってる?)、
ギターを弾いてました。
二ヶ月間くらいしかやってない気がするけれど、
ここでアニソン、ボカロ界隈の空気感というのを知ることになります。
CLOUDNINE
まさか自分がライブでアニソンカバーをすることになるとは思いませんでした。
イケメンボーカルさんと組んで二人でわちゃわちゃなライブをしました。
全パート打ち込みで作ってバンドっぽいサウンドに仕上げるという制作的な面も大変でしたが、
むしろ毎月ライブをやるってのがこの時点で8年ぶりくらいでしたw
一人暮らし
ここで初めての一人暮らしをすることになります。
全部自分の責任。
食べるのも散らかすのも片付けるのも消耗品買って来るのも電気代払うのも全部。
そうやって生きることでようやく”生活力”ってものに気づけたなというお話です。
アニソン歌う
あんまり人には言ってないけれど、
僕にはもっとやりたいことってのがあって。
そのための準備の準備の準備として、
まさかのひとりでライブで歌うということをしました。
1年間くらい、アニソンをガチガチにアレンジしてメドレーにして30分27曲とかで。
バンドでもユニットでもなく完全にソロだから言い訳が出来ない。
このときは結構頑張ってたと思います!
“やりたいことを”という観点でもですが、
とにかくマネタイズも頑張ってました。
仕事して、活動費と制作時間分のリターンをちゃんと生み出すための音楽活動ってのをすごく意識していました。
そのおかげで、一番”ライブで稼いでた”時代とも言えますねww
写真のモデル
自分嫌い、写真嫌い、人に見られるのもいやな萩原悠ですが、
コンテストに出したいから写真のモデルをやってくれないかと頼まれてしまいましたorz
最初は断りましたが結局やらせていただきまして、
カメラマンさんは見事賞を取ることに、
そしてそのときの写真のいくつかを今でもこのサイトのトップで使わせてもらったりしてます。
その他こまごまとしたこと
以上がそれぞれ結構ちゃんと書いたことです。
これ以降は、わざわざ1ページ書くほどではないけど書き残しておこうかなということをまとめてドドっと書きます!
Wickedを観に名古屋まで
きっかけはなんだか忘れてしまったのだけれど、
出不精な僕が名古屋まで劇団四季ミュージカルWickedを観に行ったのです!
まぁ〜めっちゃよかった。
C席でなので二階席でちょっと迫力に欠けるけど、
でも全体像を観るのが好きな僕にはちょうどよかったかもしれません。
Wickedはその後東京での公演も始まったので観に行きましたが、
そのときに
「3,000円(C席)でこんなすごい公演が観れるならもう自分はライブなんかやりたくねぇわ……」
ってなりました。
(僕がやってたライブはチケ代2,000〜2,500円+ドリンク代500円が相場)
割とマジで凹んでたのよ。
あ、しれっと名古屋観光もしましたw
ケーブル作りが趣味
これはDTMerあるあるかもしれませんね!
ケーブルとかにもこだわり始める時期。
実は簡単に作れるんですよね。
ハンダごてが扱えれば。
好きな長さで作れるし!
で、どのケーブルを使うかによって音微妙にが違うわけ。
なのでこのときはどのフレーズをRECするかによってシールド変えてましたね。
BELDENの8412、9395、9778と、
CustomAudioJapanあたりは好きでたくさん作りました。
ただ、いちいち繋ぎかえるのが面倒になっちゃって、
今ではマイクケーブル系は全部8412に統一、
ギター系は9395をメインに、低音重視のときだけ8412にするくらいになりました。
やっぱりサッと録れる方がいいもの!
ちなみに、8412は長さによって色を変えるという几帳面っぷりを発揮していました。
たしか15cmまでが青、
30cmまでが黄色、
200cmまでが赤、
それ以上が黒だったと思う。
髪型
高校一年生の頃から大体ずっと同じ髪型なんですけど、
SHIKIさんあるときリハ前に立川のスタジオのロビーでいきなり
「悠さん髪型それでいいんスか?」
とか言って来て。
なに?なんかおかしい?てか実は昨日切ったんだけどww
どうやらおしゃれなSHIKIさんからするとすごくダサかったらしく、
今すぐ行けと、リハ終わったらすぐ行けと、近くのよさげな美容院探してくれて、
この写真見せて「これにしてください」って言えばいいからってとこまで準備してくれました。
そのときに[前下がり]という言葉を覚えて、それ以来僕は今でも美容院に行くと
「前下がりにしてください」
だけ言ってます。
細かいことはお任せ、毎回担当さんによって
「襟足は……」
とか
「ここのラインをどうのこうの……」
とか言ってくれますが、
そこは全てお任せにしてます。
たまに美容師さんに
「どうしたいんですか!!」
って怒られますが、もうホント、どうでもいいっすw
同じユニクロのスキニー履いてる
CLOUDNINEの衣装用にってことでSHIKIさんが選んでくれたんだけど、
ユニクロの黒スキニーです。
もうね、ずっとこれ!
もともとファッションに全く興味がないので、
SHIKIさんがこれ似合うって言ったからずっとこれ!
そりゃ長く履いてればヘタってくるし汚れても来るので、
そしたら、全く同じ商品を買い直してます。
多分今(2019年末)履いてるのは5代目くらいかな?
特に不満も持ってないので、来年あたりまた買い直すかも。
安いイヤホンを使い続ける
これはなんならもっと前からのお話かもしれないけれど、
僕は外で聴くためのイヤホンをいいやつにしようと思ったことはないんです。
というのも、
良い音で聴きたいなら家でデカいスピーカーがあるし、
外でまでそんなにちゃんと聴こうとは思わないってのと、
制作をしてる身なので、逆に一般の方がどんな環境で聴いているのかというリファレンスも持っておきたいという意向があります。
いいスピーカーで大音量で音楽作っても、
聴いてくれる人の中にこんないい環境で聴いてくれる人はいないと言ってもいいですよね。
そしたら、みんなが聴く環境でも音源をチェックしてバランスなどを確かめるってのは必要なことです。
そのため、僕は数年間これ、同じイヤホンを買い続けてました。
カナル式が嫌いなのと、あまり大きいやつだと耳が痛くなってしまうのとで、
このタイプが好み。
後継機種だとイヤパッドが大きくなっちゃったんですよね〜。
そして2015年頃には完全に市場から姿を消しました。
残念。
ちなみに、今はBluetoothイヤホンになりましたが、
形状は変わらずインナーイヤー型です。
→激安のBluetoothイヤホンが一ヶ月で壊れて断線したという話
Gibson レスポールを買う
いつかは欲しいなぁなんて思いながらも、なんとなく王道すぎて手を出してなかったレスポール。
しかもヒストリックコレクションというかなりちゃんとしたモデルをこのとき買いました。
というのも、僕の大好きなGLAYをデビュー直後からずっとプロデューサーをなさってた佐久間正英さんの余命が残り少ないというニュースを見て、
どうしよう、自分ももっと頑張らなきゃ……
そう思ったときに、本気で一生使える、
本当にいいギターを買おうと思ったんです。
ということで、1999年製のギブソンレスポール、ヒストリックコレクションを買いました!
これは当時のブログが残っているので(加筆してるけれど)それを貼り付けておきます。
半月板にヒビが入る
半月板ってのはつまり膝にある骨のひとつなんですけど、
ここにヒビが入りました。
サッカー選手みたいでしょ?www
原因はそんなかっこいいスポーティーなものではなく、
人間関係のなんやかんやでストレスが溜まっていたので夜中に家の周りをグルグルとひたすら走ってたときに、
1時間くらいして急に膝が痛くなったためテンション下がってその日はおしまい。
その数日後に急に歩けなくなりました。
病院に行ったら半月板にヒビが入ってるって。
そしてその5日後にはお世話になってる西荻窪ターニングというライブハウスが改装閉店する前の最後のライブ。
CLUDNINEだからギター持って飛び跳ねなきゃいけないし、
トリだからありがたくもアンコールも頂いちゃうけど、
俺、アンコールかかってるとき楽屋で
「ちょっと待って……ちょっと待ってごめん……痛い痛い……」
って泣いてましたwww
ちなみに、こういうヒビは完治するというものではないようで、
今でも割とビクビクしながら生活、ライブをしています。
どっちの足かは秘密です、もし気付いたら教えてくださいね!
ちょこちょこ企画バンドに参加
CLOUDNINEや萩原悠Presentsですっかりアニソンライブに出演するようになってから、
「ちょっとサポートやってもらえませんか?」
みたいなのが増えて来ました。
本気で上を目指しているボーカリストさんのサポートなんかもしましたが、
アニソンバンドで人手が足りないみたいなところにも参加しました。
特にラブライブはなんかいっぱいやったような気がする。
流行ってたんですねぇ〜(今も流行ってる?ww)
TOSHI NAGAIと共演
初めて好きになったバンドがGLAYで、
はじめてギターで弾けたのもGLAY。
GLAYのおかげで今の僕が音楽をやってるとも言えるわけですが、
このときなんと!
GLAYのサポートをやっているTOSHI NAGAIさんとイベントをご一緒することが出来ました!
いやもうね、幸せ!
誘ってくれたのはアニソン界隈で仲良くして頂いてた方なんだけど、
ホントに、アニソンやっててよかったって思いましたww
ちなみに蓋を開けてみれば米倉千尋さん、大槻マキさん、川添智久さんともご一緒することが出来て、
本家のmemories、本家のstand up to the victory、
とってもよかったです!
近所のプールにちょこちょこ通っていた
0歳〜12歳までスイミングスクールに通ってたから一応泳げるのですが、
このときは完全に気分転換に。
作業に煮詰まったときとかストレスが溜まった時とかにいってました。
ホラ、半月板損傷してるので、膝に負担がかからない水泳がいいってことで。
泳いでると割と無心になれて、
実際萩原悠Presents Vol.3のセットリストとかは泳ぎながら考えて、
メドレーをどう繋ぐとかどんな演出どんなアレンジにするかは水中で決めましたww
皆さんにも是非おすすめです!
妹が結婚する
これはなんか、ビックイベントですね!
まさか妹が結婚するなんて!
いや、結婚出来なそうな奴だったとかそういう意味じゃなくて、
だって普通にびっくりしない?
一緒に暮らしてなかったしそんなにしょっちゅう連絡するわけでもないからそういう話なんも聞いてなかったし、
あるときなんと結婚すると!
いや〜もうね、感無量よ。
結婚式は舞浜のイクスピアリだったかな、ミッキーさんたち来てくれた!(お金かかっただろうなぁ〜)
式場で一番泣いてたのは間違いなく僕で、家族に
「あんた大丈夫?」
と心配……呆れられてましたorz
今では一軒家も購入し、娘も生まれ、幸せな家庭一直線です。
割と自慢の妹。
ちなみに僕のこのプロフィールページの一番最初もこの妹の話から始まるので、
よかったら見てね。
→萩原悠が音楽を始めたきっかけ
天下一音楽会というイベント
当時巷で流行ってた天下一音楽会という投票勝ち抜き型のライブがありまして、
目玉としては、決勝戦の会場がZepp Tokyo、優勝したら50万円、
そんなイベントでした。
結構流行ってたので、第何回トーナメントまであったんだろう、
弾き語り限定トーナメントとかアニソン限定トーナメントとかあった気がする。
運営さんも現場スタッフさんもちょっと頼りない感じで、
しかも出演者も当日ドタキャンで来ないとかもあって、
もう割とグダグダなイベントだったのですが、
みんなやっぱりZeppでライブやりたいし、
たしかノーノルマだったし、
そういう意味では結構人気だったんですよね。
僕はCLOUDNINEとして第二回大会に参加して、
萩原悠Presentsの個人としても第三回大会に参加しました。
一応どちらも決勝まで行ってZepp Tokyoでもライブさせてもらったのですが……
申し訳ない、正直あんまり好きになれなかったイベントで、
そんな中でも自分なりに楽しみ方を見つけて(歌の投票型ライブなのに口パク&エアギターしたり、他のエントリー者さんをゲストとして迎え入れたり)取り組みました。
決勝には当時お世話になってたボーカルさんたちを8人ゲストで連れていき、
ホンの2分くらいだけだけど、Zeppのステージに立ってもらいました。
お陰様で賑やかなステージになりました。
天下一音楽会で知り合った方でその後も仲良くしてくれてるのは
高高-takataka-、キックン、金城舞子、おはる、王子、あとWak!ちゃんくらいかなぁ……。
忘れてたらごめんねww
ちなみに僕が参加した第三回大会で優勝したのは4年2組というユニットで、
JR総武線平井駅にデッカい広告出してます!
自主企画ライブ
このフリーター編は僕が台湾に行くことで幕を閉じるのですが、
最後に、国内で僕がアニソンやってた集大成としてイベントを打とうと考えました。
全4時間くらいだったかな、僕がこの2年くらいでやってきた色んなユニットが無転換で出演しまくるというイベントで、
当日19名の出演者と11名のスタッフの仕事を全部管理して、
自分も衣装8着ギター6本で63曲演奏(メドレーがほとんど)という鬼のイベントでした。
細かいことは当時書いた感無量すぎる記事が残っているので一応リンク貼っておきます。
無駄に長いしアメブロに書いたやつをこっちに引っ越しさせたから画像とか小さくなっちゃってるけど。
退職、そして台湾へ
台湾に誘ってもらったきっかけは次の項で書くとして、
2014年8月よりいよいよ台湾に行くことになります。
そのために2011年4月より働いていた大学での勤務も迷惑かけまくりながら退職し、
みんなが送別会とかもやってくれて。
大学を卒業してからのフリーター期間、
果たして一生懸命生きてたかと言われると疑問が残ります。
もっと頑張れただろうとか、もっと真剣に人生考えなきゃとか、割としょうもない感じだったように思います。
ただ、そんな僕なのに、周りにはいっぱいいい人がいてくれたなぁと思います。
感謝だなぁ。
さて、以上が萩原悠フリーター編でした!
次からが台湾編になります!
1年間しかなかった時期なので2020年中にさらっと書き終わろうと思います。
もしよろしければまた読みに来てください!