– これまでのあらすじ –
光陰は矢の如く過ぎ、
大学生活の終わりに、僕らは4人で卒業旅行にでかけたんだ。
それが、2011年3月11日のこと。
このページはその日から数日間の僕の落ち込みっぷりのお話です。
前置き
「地震のとき自分はこうしてて大変だったよーびっくりしたよー」というクソつまんない話はなるべくしたくないタイプなので書くか迷いましたが、
僕の人生においてとても大切なことだと思ったので、
せっかくこうして生い立ちを書いてるんだから、
避けては通れないと思い、書きます。
2011年3月11日
この日、卒業旅行に行ってました。
箱根に。
音大生の卒業旅行にしては質素な、
なんとなくダラダラブラブラとするというプランでした。
箱根は彫刻の森美術館を適当に堪能し、
足湯なんかにも浸かっちゃったりなんかして、
なんとなくお土産コーナーにいたとき、地震は起こりました。
「うわやっべ、クッキー落ちる、割れちゃう……!!」
積んであったお土産を咄嗟に守りましたが、
同行してた後輩に
「そんなことやってる場合じゃないかもしれませんよ」
と言われて、クッキーを見捨てて建物の外へ。
震度3.7の揺れに観光客一同はとりあえず広いところに避難して、しばらく待ちましたがその後特になにも起こりませんでした。
箱根登山鉄道が大事をとって運休になったので、
しょうがない、宿まで歩いて行こう。
たしか大して遠くなかった気がする。
「ニュースは見ないようにしよう」
とりあえず僕ら四人の家族は全員無事なようで、
直接知り合いでなにか大きな事故に巻き込まれたみたいな人もいないようです。
とは言えそれなりに不安な空気にもなって、
どうしようかなと思ったときに僕が言ったのがこれです。
「でもまぁ、とりあえずなんの情報が正しいのかもよくわからないし、せっかく一生に一度の卒業旅行だし、僕らは明日帰るまでニュースやネットを見ないようにして、とりあえず箱根楽しもうぜ!」
一緒にいた3人はこの考えに同調してくれて、
とりあえずホテルでUNOやって、なんとも普通な旅行初日を迎えました。
(なんとなく不安だった僕はこの夜一睡もせず、全員分のスリッパを並べペットボトルの水を買い、部屋の出入り口付近でウロウロし続けていました。)
翌日は楽しい箱根観光
一晩明けた3月12日、箱根は何事もなかったかのように観光地っぷりを爆発させてました。
強羅 大涌谷のロープウェイに乗ったり、
芦ノ湖で遊覧船に乗ったり、
まぁ〜純粋に楽しかった。
今ほどSNSも流行ってなかったから、
みんなも写真撮ってすぐネットに上げようなんて気にならなかったし、
そうすると、純粋に現地だけで楽しんでいました。
こうして僕らのささやかな卒業旅行は終息に向かいます。
小田原駅にて
とてもラッキーでした。
3月12日だけ電車が動いてたんです。
3月11日当日は電車が止まってて、
3月13日は電力不足で電車が止まってました。
当然そんなことつゆ知らずな僕、
旅行の帰りを電車で乗り継いで帰ることのダルさが全身を包んでいるという大変満足な気持ちで帰路についていました。
そして、小田原駅で乗り換えるときに、たまたま目に入りました。
東京新聞。
なんだこれと。
これはほんとなのか。
こんなことが起きてるのか。
それなのに、自分は遊び呆けてて、しかも一緒にいた人たちにも無視させた。
なにやってんだよ。
本当になにやってたんだよ……。
こうして、ここから僕のテンションはダダ下がり。
というかどうやって帰ったかもう覚えてないわ。
自宅の被害
地震から1日明け、
国内で多くの”日常”が奪われたことを知り、
その夜に自宅に帰って、
またひとつ絶望しました。
自分の日常が、
なにひとつ変わってないんです。
積みっぱなしだったCDのケースがちょっと倒れてただけ。
あれだけ大きなことがあって、今尚苦しんでる人がいるのに、自分には全然なにも影響がない。
こんなことでもショックを受けるくらい、丸二日遊び呆けてしまったショックと罪悪感が強かったのです。
翌日の超無気力を救ってくれた人
3月13日。
もうスーパー無気力状態。
電力不足、計画停電とかの話も出てくるし、そしたらいよいよDTMなんてやる気は起きないし、
大学四年生の三月、もう学校にはほとんど行かなくていい時期、
その日はバイトもない。
もうなにもする気が起きなかった僕に、メールをくれた奴がいた。
それが童夢ちゃん。
元オリンピック選手の成田童夢。
「悠ちゃん一緒に募金活動しない?」
ちょっと前に仕事で知り合って話が盛り上がった仲だったので、
突然の誘いに僕は飛びついた。
何か役に立つことをしないと、自分の存在が許されない。
渋谷駅前で募金活動
童夢ちゃんの人脈で色んな人に声をかけて、集まったのは10人くらいだったかなぁ。
おかげでそこそこの成果は上がり、
お昼くらいに始めて、日が落ちて寒くなるくらいまでの時間で291,152円の募金を集めることが出来ました。
これが初日の功績。
自分ひとりがいなくてもほぼ同じ金額が集まっただろうけれど、
それでも参加させてもらってよかったと思いました。
翌日もやるとのことなので、もちろん参加します。
二日目はたしか初日よりも参加メンバーが増えました。
友達を連れて来てくれたり、SNSで呼びかけたら参加してくれるようになったからです。
日に日に……
翌日、翌々日と毎日募金活動をしていると、
段々状況が変わってきたことに気が付きます。
1.同じように募金を募る団体が増えてきた
2.募金を入れてくれる率が下がってきた
3.疲れてきた
大きく分けるとこんな感じ。
募金活動団体が増えた
これは童夢ちゃんの行動力を讃えるところです。
3/14,3/15と日が経つに連れて、
僕らの他にも募金活動をする人たちが増えたのです。
声を上げる人の数が増えたので、わかりやすく賑やかになりました。
それはまぁ、とてもいいことです。
募金を入れてくれる率が下がってきた
これはもちろん僕らではなく隣の団体の箱に入れてくれているということもあるのですが、
当時の僕の推測では、”自分は既に募金をした“ということでこれ以上の募金をすることはないんだろうなと思いました。
昨日も同じく渋谷に来て僕らの箱に入れてくれたのかもしれない。
今朝来る前に地元の駅で募金したかもしれない。
学校や会社でまとめて募金したかもしれない。
“一度募金した”ことで、毎回見かける度に募金をしようという気持ちにはさらさらならないんだろうと考えました。
そりゃそうだ、初日に1万円募金したからって、
翌日も翌々日も1万円募金するわけはない。
疲れてきた
疲れてきました。
3月はまだまだ寒いし、ずっと外に立ちっぱなしだし。
(一応順番に女の子とか休んでもらうように言ってたけれど。)
それに放射能が東京まで飛んで来ているとかの話もあったし、
僕もバイトを複数掛け持ちしてる時期だったし。
募金活動→夜勤でバイト→募金活動
なんてこともしてました。
これはまぁ取り憑かれてたからなんだけれど。
(コンビニバイトもしてたっけな、こんなだったけど。)
“募金活動してます、募金しに来てくれるのも一緒に募金を募るメンバーも歓迎です!”
毎日の経過報告と共にこんなことを写真つきでSNSに上げれば
「こんなときにピースして写真写ってる子がいるんですけど、不謹慎です。」
「この子の服装は募金を募る人のそれじゃない。遊びのつもりなんですか?」
とかの、どうせ自分はなにもしてないであろうクソ不謹慎厨からのありがたいコメントも頂き放題頂くし、もちろん言われた子は泣くし次の日からは来れないし。
そんな色んな条件もあって、
僕らの活動はたった4日目にして、参加したのは3人になりました。
(この日の送金額は70,716円)
みんな自分の生活もあるししょうがない。
ここまで募金団体が増えたらあとはその人たちに任せよう。
その後
あのとき彼に声かけてもらえたから僕は今生きてられると思う。
大地震があったことから目を背けて遊び呆けてた自分をどうにか許してもらいたくて、
たった4日間ですが渋谷のハチ公前に立ち続けました。
音楽なんてやめてしまおうと思ったけれど結局やり続けられているので本当に感謝。
ちなみに、この15年後の4月14日に、
「やっぱり自分は楽しんじゃいけないんだな」
と思い知らされることになります。
そのときのことはなんなら当時のブログに書いてありますのでよかったらご覧ください。
そんな感じで今回はこのへんで。
次のページは最初で最後、自分で歌うためのバンドを組むです!