わたくし萩原悠の詳細のプロフィール、ここからがフリーター編になります!
フリーター時代なにをしていたかと言うと、
大学職員してました!
母校で働くことに
2011年3月に卒業した洗足学園音楽大学の音楽・音響デザインコース。
卒業のちょっと前にコースのスタッフさんから電話があって、
興味あれば今度詳しい話を、みたいな感じになりました。
が、なかなか連絡来ないなぁと思っていたら3.11の震災があって更にそれどころじゃなくなり、
あれあれ、これどうしたらいいんだ?
と思って痺れを切らしてこちらから連絡してみて、3月後半に正式にコースのスタッフとして働くことになりました。
まぁつまりは、ちゃんと就活しなかった組ですね。
頑張って音楽活動してたらなんとかなるんじゃないかと思ってた組ってやつ。
まぁ〜甘い甘い!
ゲロ甘です!
コースのスタッフとホールの管理を兼任
始まりはなんでだったかもはや忘れた!
けれど、音楽・音響デザインコースという、僕が在籍していたコースの先生方のサポートやら教室機材の整備やらをやる部署と、
ロック&ポップスコース、ジャズコース、ミュージカルコースが使う練習室やライブホールを管理する部署、
そのふたつを掛け持ちすることになってしまいました。
曜日によりあっちの仕事したりこっちの仕事したりなんだけど、
当然ながら自分も周囲もそんなうまく割り切れるはずもなく、
「あ、今日こっちにいたんですね!助けてください!」
みたいなこともしばしばあり、結局どっちも中途半端に関わる感じになってしまいましたorz
色々学べた
もしかしたら4年間学生やってたときよりも色んなことが学べたかもしれません。
それはきっと学生時代と違って責任とかがあるから。
だってさ、学生は機材の使い方がわからなかったらスタッフを呼べばいいじゃない?
でもそのスタッフだって数ヶ月前まで学生だったのに!
知識は同じくらいかもしれないのに、
わからないじゃ済まされない、授業の時間なくなっちゃうっから早く直してとか言われる、
実は凡ミスで学生がケーブル抜いちゃっただけとか、真空管がぶっ壊れたとか、
理由は様々。
次第に何製の何inchのドラムヘッドがどれくらいで減るとか、
某メーカーのシンセは立ち上げる際に結構エラーが起こるだとか、
照明の仕込みを一人でやらなきゃいけないという学生に付き合って閉門時間までいたり、
マイクの使い方がわからないけどひとりで歌を録らなきゃだから手伝ってと朝一から付き合ったり、
逆に学校の予算がどうこうでアンプが台数分入れられないとか、
毎日トラブルばかりよ!
知らないじゃ済まされない。
僕らがエキスパートにならなきゃいけない。
そんな無茶なと思うけれど、やるっきゃなかったのよね。
おかげでのほほんと登校してた、誰かに聞けばいくらでも教えてもらえる恵まれた環境だった学生時代よりも色々学ぶことは多かったなと思います。
部長とか課長とかって人と接するのもこのときがほぼ初めてだったしね!
これが大人の世界かと、そんなことも思いましたw
僕は全然頑張ってなかった
最低限の乗り越えなきゃいけないことはやっていたけど、
それ以上には頑張れなかった。
周りに何人か頑張ってる人がいて、特にホール管理の方の仕事をメインでやってる同期のスタッフ、
彼の頑張りは本当にすごくて、
機転も効くし、責任感もあり、誰に対しても気持ちいい接し方をするし、
僕の人生の中で出会った人の中で眩しすぎる人ランキング第一位。(……か、第二位かww)
すごいな〜えらいな〜と思って尊敬はしてたけど、何故か僕はそこまで頑張ることが出来なかった。
先生方や生徒達にも、同僚、先輩や後輩にも迷惑かけてるなぁと思っていたけれど、
それ以上に頑張ろうという熱意が湧いて来なかった。
今思えばただの怠慢で、熱意が湧いていない自分に対してもずーっとモヤモヤしていた。
この仕事は台湾に行く直前まで続けることに
学校での勤務は、台湾に行く2014年まで続けることになります。
逆に、ここで働いていたからこそ台湾に行くチャンスを頂き、
そして今に繋がるというわけです。
なのでもう数ページ続く”フリーター編“はとりあえず”学校勤務時代編“ということになります。
次のページはニコ生をやってたときの話です!